自分自身が作り出すものこそが自分自身だと考えるのなら、大量生産技術の発達でもう自分の手では何も作ることができなくなっている我々にはもはや自分自身なんて存在しないことになる。けれど、実際のところ我々はその大量生産されたもののうち、なにを自分のものとして手に入れて、何を自分のものとして手に入れないかによって自分自身をかたちづくっている。何十年も前から。
tumblrのreblogが、”個の喪失”とか”主体の消滅“という印象を与えるのは、その昔金物屋さんといったら自分でやかんをたたいて作るひと、だったのが、大量生産されたやかんを売るひと、に変化して行ったタイミングで、自分のやかんを作りだす金物屋としてのアイデンティティの喪失をおそらく感じたのとおんなじだ。
いまtumblrで、ブログといったら自分で何か考えて書いて読んでもらうもの、という時代から、ちょこっとreblogしてpublishして人に見てもらう、という大量生産時代に移り変わっている。この状況に、自分の持っていたブログの生産技術がInstant, no-overhead tumblelog で大量生産されるエントリに圧倒され、とってかわられるところに、アイデンティティの喪失、つまり”個の喪失”や”主体の消滅“を感じているのかも。
tumblrのreblogで消えるもの « ku (via tnoma)
ブログも、その多くはメディアや他のブログなどからインスパイアされて、書かれることが多いと思うのですが、その「付加価値」の部分がどんどん小さくなっている気がします。
これは既存メディア(特に報道分野)でも言われていた話で、テレビや新聞は「速報」という付加価値が大きいので付加的情報(コメンタリーなど)は少なくても総合的には付加価値がある。それに対して、雑誌では速報性で劣るので付加的情報(俯瞰やまとめ含む)がないとお話にならない、とか、でも雑誌はすでにオーディエンスを絞り込んでいるので、深く書いても大丈夫とか(私は雑誌メディア出身なので、この視点)。
なのでtumblrやtwitterなんかは、ソーシャルな切り口による付加価値(自分では興味を持っていないから本来では自発的に入手しない情報など含む)があるかどうかが、一つのカギかなぁと思う訳です。例えばtumblrする際に、コンテンツの全体でなく一部を切り取って引用する、というのは、そこに情報を切り出す、という付加価値があると思います(友だち同士で「あの映画のどこが面白かった」という場合に、一人一人が違う場面を切り出すように)。
そして、なぜこれをreblogしているのか、という意識に、再び立ち戻ってしまいました。これは本来、ふつうのblogで書くべき内容(私であればここ)ではないか、と。ちょっとしたメディア論だし…
(via nseki)
(via otsune)
reblogは「生産」でも「消費」でもなくて「(リ)サイクル」であり、何かを外部に拡張するという文明のパターンとしていえば、自己の情報体験を外部に拡張・公開したもので、つまり、やはり「脳みそ、だだ漏れ」が一番近い気分(笑
そこにあるものは生産物ではなく、自分自身の体験課程(の断片)だけ。
別の言い方でいうと、情報のDIYなので、それを既存の完成品生産者がなんとかしようとしても、なかなか無理がある。
なにせ、ここで価値があるのはベストワン(完成度)ではなく、オンリーワン(独自性)だから。
関わるのであれば、DIYに適したパーツや素材の提供という市場を作る方がコントロールしやすいだろうなぁ。
しかし、この「だだ漏れ」、そういうことに対し鈍感であるか、いっそ露出癖がないと続かないし、そういうものを嫌悪する人は、たぶん見たくもないものだろうなぁ…^^;
(via asobiya)
あとで読むためにとりあえずreblogしておく。
(via alisato)
ミームの伝達が可視化されているのか、と思うことはあります。
(via booksinflood)
(via syoichi)
